昭和39年12月25日 朝の御理解



 昨日、親教会にお礼に行って帰らせていただきましたら、下関のなかばやしさん達親子がお礼にでて見えておりました。あの、お孫さんが、あのう生まれつきこう目が見えない、あの、あの方なんです。それが段々おかげを頂いてから、目が見えるよになってきよる。あれはもう現代の医学ではどうにもできないという。まあそういうおかげを頂いてから、まぁ月のうちに二回、また一回ぐらい参って見えるんですね。
 この前娘婿さんが、こちらのもじ(門司?)のほうで大きな会社を持っておられるのが、事業不振で行き詰まってどうにもできない。そこで、そういもう、娘婿さんと、夫婦と一緒にお参りになられた。ほんで、その娘さんというのは、だから二度目のお参りなんですけども、お礼に出て見えたと言うのは、それ以来主人がひじょうに元気が出てですね、今まではあの、金銭の事でも会計まかせにしておったのが。
 もう自分がその率先して、借金のことわりに行くところには行く。また金銭の支払いなら支払いの上にでも自分がそれにタッチして、いちいちその祈りを込めてからさせていただくようになって、ひじょうにその元気が出たと。現在自分の住んでおられる何百万の家が、何百万かの抵当に入っているんだそうですが、現在売ればそれ以上に売れるんですね。ですからそしてそのその人が言うのだけれども。
 御神意のままに動くことに決まったら、度胸がでけた、はらがでけたと言うわけですね。あでその普通はたっていくはずではないのに、そのやはりなんとはなしに、その車がもうていきよるということ。もうそのことのお礼に見えられたんですね。ですから丁度お昼になりましたから、お昼ども差し上げながらいろいろ話を聞かせて頂いたんですけれども、だいたいなかばやしさんは台湾におられた。
 で台湾で事業をなさり、その事業が不振の為におみ、台湾でお道の信心を頂かれて、ほでおかげを受けられたという方なんです。御自身は七十になられるそうですが、もう来年から本部御用要員の御指名を頂いて、もうはりきっておリますとこう言われる。私はじめて聞いたんですけれども、あれはあの各教会の実意丁寧なですね、あれ手本になるような御信者さんがたに、御本部からそういうその、あれがくるんですね。
 であのう御本部で御用しておる方達はそういう方達。全国の教会のよい御信者さん達が集まって、本部教会の御用をなさっておられるんです。どういうな事だろうかと私が思いよったそんなわけなんです。で、もう、非常にはりきっておかげを頂いておるという、お話を聞かせていただいたんですけどね。なかなか実意丁寧な、あたくしここにはまだお参りして見えませんけど、御本部でお会いさせて頂いた。
 中々そのう実意丁寧お爺さんなんですね。台湾でもうどうにもでけずにお願いにやらせて頂いた時に、そこの先生がそのう日々ですね、もう幾らかずつでも儲からせて頂いたらですね、借金のでけとる所にあのうそれを、割って幾らづつでもよいから、ことわりをゆうて払うて歩きなさいと言われたそうですたい。だからもう始めの間はその位な金をと思われたり言われたりしとったけれども。
 それが三年続く間には借金が綺麗に済んだというわけですね。ほんとに今月はわずかで御座いますけども、今日は本当にわずかで御座いますけどもと言うて、まあその日に日にんとこは日に日に、その月々だからもう決してその、向こうから取りにこらせる様な事はしなかったと。こちらから謝って回られたと言うわけなんですね。同時に今度はこちらがこの貸した方の側はもうけっして集金に行かないということ。
 持って来てもう電話でどん催促した事などなかった。そのためにもう随分引っ掛りも出来ましたけれども、やはりその時にあちらで財産をなされたわけなんですね。そういう生き方あり方で。皆さんそん所どういうふうに思われます。どう言う所が素晴らしいと思いますか。中々金光教的ですね。少しのお金でももしでけなかったらことわりに言うて回る。でけたらそれはわずかづつでも、皆んなにその支払わせてもらう。
 しかも集金にこらせたことがなっかたという。もう最後には、もうそのう段々信用もでけてですね。まあその事がおかげになって参りましたんですけれども、三年後には支払いも出来るお繰り合わせ頂いた。同時に今度は自分のほうへこの集金をするという事には、もう絶対集金には歩かないという事。それは先生が仰ったからかどうか分かりません、それは聞きませんでしたけれどもです。
 集金には行かなかったと、持ってきてくださるだけ。その為にはやはり引っ掛りもでけたと。けれどもやはりその時に財産をなされたとこういう事。支払ろうて回るということもなかなか実意丁寧ですね。断わりをいうて回られるということも。しかしこれはでけるけれども、つぎの自分が集金する方を放任しておられたという事は普通じゃでけませんですね。ここにおかげとお徳とを頂いていかれたような感じがいたしますね。
 家に病人があったり、何か手が離せないような時には、なかなか信心はでけん、お参りはでけん。だから常日頃に信心の稽古をしておけとこういう。また次には、『十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心になれよ』とこう仰る。『ままよとは死んでもでもままよのことぞ』 と。子供、例えば重態だと。そういう時に枕もとにつききっておったところで良くなるもんじゃない。
 そういう時には例えばその子供が(    )をゆうて、親の言う事でもきかんよな時に、もうかまわんぞ、もうせからしか、もうかまわんぞというよな時がある。そういうよな気持ちになってです、『そのことは放任して神に縋ってやれ』とも仰っておられる。なんかそのへんに、教祖の御教えにちょっとした矛盾を感ずるなら、矛盾を感じてもいいような感じがいたしますですね。
 病人があったり、家に手が離せないようなことがある時には信心ができんから、常日頃に信心の稽古をしておけと。ねえ、そういうふうに教えておられる。かと思うと、『ままよという心になれよと。ままよとは死んでもままよのことぞ』と言う様な、その厳しい信心。子供が例えば重態だからというて手おざ(あわてふためくの意か?)をしてはならん、ね。(     ?     )を言うことを聞かぬ時に、放っておくような。
 放任していくような心持になって、神様へ縋ってやれとこう仰る。そこにおかげも頂くコツ合いがある。昨日そのなかばやしさんが、まあ色々と私の話を聞いてくださってから、まああの、暇がでけてたらお参りしようお参りしようとこう願い続けて、ようやく今日暇がでけたと。お参りさせていただいたと。これなんかもいい生き方ですね。暇がでけたらお参りさせてもらおう。
 なら暇がでけたら参ろうと放任したのじゃなくて、すがりしぬいておられる。お参りさせていただきたい、どうぞ暇をいただきたいというて願い続けておられる。そこで私が、まあ月のうち十五日なら十五日という日にちを定めて決めて。信心、あのうこれはどんなことがあっても、お参りするという日に定められたらどうでしょうか。そこにいわばきちっとした信心というか。
 節度のある信心というか、おかげもまたきちっとしてくるおかげの受けられるもとがあるんですよと。二つの生き方がある。いうなら、義理人情の中に実意を持って信心をなしていくと。なかばやしさんの対話に取られた、その集金を、じゃない、借金を少しずつでも支払うて回られたりことわりをいうて回られたりというのは、義理人情の中に実意を込めて歩かれたわけ、ね。
 そこに神様のお働きも段々頂ける様になり、神様の信用も頂けるようになって、三年後には借金払いがでけたという生き方。かというと今度はまた片一方の方には自分の貸した方のかけ、貸しておる方の側の方には、よく催促をしないという生き方。集金に行かないという生き方。所謂そのままよという心である。自分が借金をおうた時の苦しさと、催促を受ける時の苦しさをが、そのうそういうふうに生かされて来た訳ですね。
 だからそれによって、なら引っ掛りも随分でけたけども、そこにたっていっておる。いわゆる段々事業の方はおかげ頂いておられると。ここんところにですね、そのういわばお徳を受けていかれておる。貸しっぱなしである。成程引っ掛りもする。けれどもこちらはその、段々繁盛して行ったと言う事。ここんところはもう自分の思いと言う様なものではなくて、思い以上のおかげというものが。
 こに現れてきておるから、貸しながらも、取れん集金が取れんながらも、やはりおかげを受けておられる。私しはこのこういう両面がね、お道の信心にはどうでも必要だとこう思うですね。暇なときにお参りをさせてもろうて、いよいよの時には、忙しい時には、その中でおかげを頂いていくという生き方。ところが、これが忙しかろうがどうしようがです、もうこうと決めておる信心が、それを動かさずに。
 それを修行と思うてお参りさせてもらう、例えばです。ことそのよる(    ?    )でもです、そういう時に放任して、神様に縋って、その義理人情というものを超越したむこうのほうへ、その信心を求めていくというところには、お徳をい受けられる信心。そういう両面がね、わたくしはこの信心なされていかなきゃいけないとこう。してみなさんが、お日参りをなさると、朝参りをなさると、言ったようなことでもこれはもうたいしたことだと思う。
 教祖の、例えばもとの教えもってするの、毎日お参りをしなくても、朝参りをしようとしなくても、ね、おかげは受けられるのです。折角の朝参りでもさせていただくという。それなら、どうでもこうでも、いわば節度のあるところの、それが修行ともなって、おかげの頂いていけれる、お徳の受けられる朝参りにならなきゃいけないということです。椛目のほうの生き方は、私はだいたいそういうふうには。
 だいたい教えないでしょうね。支払いがでけないと。そんならむしろ、放任して神様に縋れというふうに教えるだろうと思います。なら、そのなかばやしさんが取られたその生き方というものは、その義理人情を重んじられた。断りに行かなきゃいけん。あるだけでもはらわにゃいけん。だからこれだけがお道の信心の生き方ではないということ。そりゃとってもよいことではある。
 義理人情の中におかげの頂いていける道なんだ。いわゆる金光様の信心ちゃ、実意丁寧だなということ、そのことだけを実意丁寧とおもうちゃならん。しかしそれは、なかなか、しかし素晴らしいお道の信心を、これは信心のあるものにでもないものにでも分かってもらうような生き方。かというとならそのうそれを、例えば放任して、どんなにえげつない借金の催促を受けてもです。
 それを修行として受けぬかせて頂いて、そしておかげを頂いていこうとする、その生き方。いわゆるままよという心で放任させてもろうて、神様へ縋る。ままよとはもうどうなってもいいということ。死んでもままよというような気持ちで神様に縋っていく所に、十二分の徳が受けられるとこう。ですから、その時その事柄によってです、実意を込めるということも、ただ、なかばやしさんのとっておられる。
 支払いのほうに、の、実意丁寧ということ、だけを、実意丁寧ではなくてです、ね、神様に向けての実意丁寧な信心と、いうことになったら、これは、集金ではなくてから、集金貸したもの、貸したお金でも取りにはいかんと、持ってきてもらうだけと、という生き方の方にです、徳を受けられる道が開けてくると私は思うのですねえ。だからこの辺のところを、一つ疎かにしないようにしていかなきゃいけません、ね。
 折角朝参りをなさるのですから、その朝参りの中一つの中にでもです、おかげの頂けれる、朝参りとお徳の受けられる、そのお参りと内容によって変わってくるということなんですね。できるならそのうお徳の受けられる方の方を取りたいのですけれども、過程においては、また場合によってはです、そのおかげの受けられる、信心のあるものが見てもないものが見ても、成程実意丁寧な生き方という在り方、ね。神様だけが、実意丁寧として受けてけてくださる在り方とが有るんですから。
 そのへんの信心の進め方にですね、心して信心を進めていかなければいけないと思う。椛目の生き方はどっちかというと、まあ放任主義の方。そして神様に御信用を頂いていこうという生き方。けどもここにはそのややもすると、それを間違えると、それは取り返しの付かない事に成って来る、ね。内容を十分にいだいていかなければでけない。中林さんのそのう支払いとか、またはこのう集金とかということのなかにはね、どちらにも実意がなかなけりゃできるっちゃないですけれども。
 支払いをしてまわられた支払いの方には、の信心には、そのう人間に対しては行き届くけど。間違えると、神様の方に対して行き届くということが疎かになってくるという危なさがある。そすと今度は、自分の方に集金をするという方の側の信心は、神様のほうにはまあ、受けて頂いておるという、その思い込みどんでけてくればありがたいのですけども、それも、今度は人間から見てから、言うなら。金光様の御信心とはあんなことでよいかと、言わば神様の顔に泥をぬると言う様な事になりかねない危険さがある。
 両方にもそのそういう良いところと悪い所があるようですね。よっぽどだから、どちらをとらせて頂、どちらをと、まあどちらもそりゃ必要ですから、そこんとこによっぽど、ほんとの実意を持っての信心がなされんといけませんと思うですね。だからどちらが良いの悪いのじゃない、どちらも本当に、この自分の信心に頂いていけれる内容にしなければいけないことはもちろんですね。
   おかげを頂かせていただきました。